装飾品以外のガラス

装飾品以外では、ガラスの器など生産が難しい品は輸入されていました。
奈良時代に建てられた正倉院には、「白瑠璃碗(はくるりのわん)」「紺琉璃坏(こんるりのつき)」等古代ペルシア(ペルシャ)のカットグラスが収蔵されていました。シルクロードを通じて日本にやってきたこの「白瑠璃碗」は、王侯の持ち物だったそうです。ペルシアの地でも宝物の一つだったのですね。こういった高度の技術は日本には当時ありませんでした。

当時、貴重だったガラスの器は一部貴族の間で使用されていたようですが、陶磁器が発達し、ガラスの需要は減っていきました。その後、平安時代から室町時代末にかけてガラス文化は廃れていき、ガラス製造の技術も失われました。
身近なものではなくなったため、ガラス(玻璃/瑠璃)と言えば、「大陸から渡ってくる珍しいもの」という認識が江戸時代に入るころまで続きます。

1549年の桃山時代に、日本へやってきたポルトガルの宣教師フランシスコ・ザビエルが、この時持っていたガラスの鏡や遠眼鏡から西欧ガラスを伝え、1570年代にはガラス製造法も伝えられました。日本製のガラスが再び生まれたのです。

当時のガラスは「工芸ガラス」がほとんどでした。小さな細工物や装飾品、グラスやガラスボウル、茶碗等食器を生産する工房も増え、江戸切子や薩摩切子といった日本独自のブランドも生み出されました。一般認識もされるようになり、ガラスは身近なものへと徐々に変わっていったのです。

しかし、板ガラスを製造する技術はまだなく、建築に利用される板ガラスは輸入に頼るほかありませんでした。 明治40年に入るまで、普通の「板硝子」生産技術は日本になかったのです。

因みに、日本で初めて板ガラスを建物に組み入れたのは元禄年間の伊達綱宗だそうです。輸入された四角いガラスがはめ込まれていたようです。