古代の装飾品としてのガラス

黒曜石を除き、最初にガラスが日本に登場したのは7世紀~8世紀頃。
古代の装飾品である「勾玉(まがたま)」等の鉛ガラスが作られていました。勾玉(曲玉とも書く)は、動物の牙や胎児の形、魂や月の形とも言われていますが、コの字型に湾曲し、丸く膨らんだ一端に穴を空けてひもを通した首飾りです。

初期のころは、翡翠や瑪瑙、水晶、琥珀、鼈甲(べっこう)等で作られていました。弥生時代中期から洗練された形の勾玉が作られ始め、そのころからガラス製の勾玉も登場するようになっています。(岡山県山陽町の門前池遺跡、同県長船町の木鍋山遺跡、大阪府加美遺跡等で出土) 

当時のガラスは、鉛バリウムガラス、あるいはバリウムを含む鉛ガラス。北九州を中心に、主に西日本で作られていました。
「勾玉」は日本独自のものですが、原材料は中国から輸入し、青銅器や鉄器の鋳造と同じように鋳型から生産されていたようです。

勾玉とよく似たものとして管玉(くだたま)もあります。これは腕飾り足飾りや首飾りに使用される筒状の装飾品です。指輪も、日本にその技術はなくても中国から輸入することで身に着けていました。
勾玉の他に蜻蛉玉(とんぼ玉、ガラスビーズのようなもの)も奈良時代以降に装飾品として生産されるようになりました。(それまでは遠いエジプトから輸入されていた、との説も) 

古代の日本では装飾品が多く作られていました。
しかし、大化の改新の一つである「薄葬令」後、埴輪や貴金属の複層の禁止が打ち出され、装身具は神格化されました。一般庶民が気軽に身に着けるものではなくなってしまったのです。平安時代以降は、(櫛を除いた)装身具のない時代なのです。彩の美しさや香りの文化が、平安時代に花開きます。

装飾品に再び関心が寄せられるようになるのは、江戸時代に入ってからになります。印籠や矢立(現在の筆箱)、かんざしに蜻蛉玉が利用されていました。しかし、明治へ入るころには再び蜻蛉玉を作る技術は失われたそうです。現在見かける蜻蛉玉は、戦後に江戸時代のものを参考に再び作られたものになります。